学習が成立するためにはどういった条件があると思いますか?
教材がなくてはだめだろう。何を教えるかが大事だ。など多くの答え方があると思う。私は、大きくわけて、3つあると考えている。
一つ目が子ども
二つ目に関わり手
三つ目に理論
である。
何を当たり前のことをとツッコミもあるだろう。しかし、その当たり前が当たり前ではないのが、現場に出ているとよくわかる。一つずつ詳細に見ていきたい。
第一要素、子どもである。
子どもが学習する。特に問題はなさそうだ。しかし、特別な支援を要する子どもたちは素直である。
意欲がわかない教材ははなから相手にしないこともある。そもそもなぜやらないといけないかわからず、座らせられ、さらにわけのわからないものが出てきたら当然だろう。しかし、真面目な先生方は、授業しなければならない観念にとらわれ、授業をする。子どもが反発する。先生が怒る。子どもも怒るという負の連鎖が始まる。
この場合に起こることは、そもそも、子どもを見ていないことが要因の一つなのだろう。
子どもは男の子、女の子、学年は、これまでどういった学習をしてきたのか、今何ができるのか、どういったことが好きなのか。その子を知るだけでも多くのことがある。そして一番大切にしなくてはならないのが、今目の前にいる子どもは何ができるのかだ。できることを目の前にして、やらない子はほぼいないだろう。よほど感情が乱れていれば別だろうが。できることをやってもらい。じゃあ、そのできることでこれもできない?と問うかのように新しい教材を提示する。そうやって、子どもについて理解が深まっていくのではないかと思う。
そして第二の要素、関わり手である。
目の前の子どもが自分のできることで教材に働きかける。それを関わり手はみている。「こんなことがこの子はできるのか」と思う。ただ子どもだけいると実は思いの他、わからないことも多い。しかし物を操作する子どもをみると、多くの発見がある。例えば、クレヨンと画用紙があれば、子どもの表現や内面がわかる。砂場とスコップがあれば、子どもの意外な才能に気づくかもしれない。
まずは目の前の子どもに感動することから全てがはじまる。そして次からが重要だ。関わり手は、次にできることはないかを考える。
例えば、〇のはめ板ができた。では、次は?次の行動に正解はない。次を選択するのは、関わり手次第である。
私だったら、他の形のはめ板を提示するかもしれない。
例えば、△のはめ板だ。△をはめることを通して、より〇が明確になることをねらう。このように関わり手は、子どもが次に向かう道の道先案内人の役割を担う重要な要素である。
最後に3つ目の要素、理論である。
先ほど、関わり手を論じる時に述べた、教材の選択は自由だとう点についてだ。「自由」であると述べた。しかし、何を提示してよいわけではないと思う。
枠のない自由も自由として保証されるべきではあると思うものの、ここではあえて枠のある自由について述べたい。
そこで大事にしたいことが理論である。
もちろん、理論も様々だ。どの理論、枠組みを選ぶのかもまた自由になるのだろう。子どもを導く、道先は、関わり手が握っているといっても過言ではない。子どもは関わり手が導いてくれる道先を信じてくれる。その時のマップが理論にあたるのだろう。
私は、本ブログにおいて中島昭美先生の「人間行動の成り立ち」に書かれている、初期学習、概念形成学習、記号操作学習に依拠しながら、子どもの道先を案内してきている。
その理論に依拠する根拠は子どもからはじまる教育を提唱しているからだ。子どもを無視した教育に、未来はないと思っている。子どもが自ら考え、自ら操作してこそ、学びが価値あるものだと考えるからだ。
学び習うということは、子どもからはじまり、道先を案内する関わり手が自前の理論をもってして、子どもと対峙する時に生まれのだと考えたい。